東工大の学生総代に選ばれて絶望した話

昨年、東工大大学院課程の入学式で新入生総代として答辞者を拝命した。大変な名誉であり、今後の人生できっとこれ以上に光栄なことはないだろうなと思った。もうないのだ。そして自分は満足していないことに気が付いてしまった。こんな有り余るほどの幸運を身に受けても自分は幸せになれないことを理解してしまった。絶望だった。

 

高校生の頃にあれほど入りたいと願った大学の、それも院生の中で学生総代に選ばれた。それなのに今、全然幸せを感じられていない。むしろ悪化している気さえする。学生総代になったことで無駄に高い自尊心がまた一段と高くなり、同時に幸せじゃないことに対する不満がより募っている。理性では不毛だとわかっているのだが感情がどうしようもなく叫んでいる。

 

思い返すと人生で確実に幸せだったと言えるのは、自分が好きな女性に好きだと言われているときだった。一年前に付き合っていた元恋人はずっとそういう時間を与えてくれていた。ちょうど付き合って3か月の頃に答辞の依頼が来て、バイト終わりの彼女に自慢して、すごいねと言われていた時が幸せの絶頂だったのかもしれない。それに比べたら学生総代に選ばれたことなんておまけだった。確実に来る幸福を待つ時間の中にこそ幸福がある、とは誰が言ったのだったか。デート前に新しい服を下ろしたり髪を整えに行く時間や、サプライズプレゼントを仕込むべくデートで訪問する予定だった店まで向かう朝の電車の時間もきっと幸せだった。

 

彼女と別れた後、自分は自分一人のために頑張れない人間であることに気が付いた。日々の研究はただ苦しく、なぜ自分は幸せになれないのかと考えてしまうようになった。そんな生活の中で学生総代に選ばれた事実はただの呪いとなった。

 

学生総代になったところで好きな人が自分を好きになってくれるわけではなかった。マッチングアプリで知り合う女性はそもそも東工大を知らないことのほうが多く、恋愛市場で高学歴など意味をなさないことを知った。好きな人に好かれるためには異性としての魅力を磨かなければならなかった。勉強すれば幸せになれると信じてこれまで頑張ってきたが、どうやら自分が幸せになるために必要なことは勉強ではなかったらしい。

 

お金だって大して稼げるわけじゃない。本当に頭の良い人間は起業したり海を越えて上を目指して生きるのを知っている。そんな能力も気概もない人間は、大人しく社会の歯車として雇用され安定な生活で満足するべきだろうと頭では分かっている。それでも学生総代に選ばれたという事実は、自分が素晴らしい人間なんじゃないかという錯覚を起こす。なぜ自分は彼らのように生きられないのだろうという誰にも聞けない問いが浮かんでくる。答えはすぐに出てきて、ただ少し他人より勉強することが好きなことと、研究という業務に適性があっただけで、むしろそれ以外は何もできないことのほうが多いという自分の無能さゆえだ。

 

良い大学・良い会社に入っても幸せを期待してはいけないということを身をもって実感している。見当違いな思い込みと現実のギャップを受け入れられない、どうしようもない人間だという思いがふつふつと湧いてくる。ギャップがあるなら現実を重んじるべきだった。

 

最近は研究の意義すら受け入れられなくなりそうだ。100年後に役立つかもしれない基礎研究は個人的には楽しいけれど、人気アーティストが新しい曲を出したり、腕の良いイラストレーターが尊い漫画を描いたり、顔の良い男女がアイドルをやってくれた方がきっと世界は幸せになる。

 

それでも自分は勉強を捨てることはできないだろう。これ以外の生き方を知らず、自分が社会の中で認められるためには勉強しかないと知っているからだ。そして学生総代に選ばれたというプライドはいつまでも残り続ける。肥大化した自尊心と自己愛が満たされることはないまま、なぜ幸せになれないのかという自問自答を繰り返し、最後は自分の無能を見つめ絶望する。

 

この呪いが解ける日は来るのだろうか。